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最近の昨日今日のことは明日書くとして
2011.05.17 Tuesday
Some day We'll all be free
職場で、いま開発中のシステムの取扱説明書を書くことになった。
おれはこの事態をポジティブにとらえることにする。 ある意味、文筆業。 そう考えると、なかなか悪くないじゃないか。 はあ はやく会社やめよう。 それでは、次のニュースです、けっ。 ゴゴゴゴの投稿記事の表示をもっと効率的に配置できないかと考えている。 どうしようか。 新聞みたいに記事を縦横に効率的にならべて、何があるかが一目でわかるようにしようかと考えている。 今の俺には、自分以外にインプットがない。 だから自分の頭の中にあるものを、書いて、整理して、また書く。 よし、次のマイルストーンはこれでいこう。 ゴゴゴゴは俺の頭の中だ。 少しずつ誰かとつながって、どこまでも無限にひろがっていけ。 エクステンションオブマーン そして、 いつか、 おれたちは自由になるんだ! そう、会社からね。 2011.05.11 Wednesday
小説は全て、ホラー小説である。
こんな壮大な曲もいい。
詞もいい。 映画もすばらしいぞ。 転調うまいな。ユーミン。 それでは、次のニュース。 若書きというのがある。 とにかく書きまくって、
手を動かしながら考える。 書く=考える 書いたもの全てが成果になるわけじゃない。 ほとんどが推敲や、編集の過程で削り取られる。 そういう創作術。 というか、たぶん誰もが、 いろんなところでこんな事してる。 プログラムでも書いたコードが全部製品になる訳じゃない。 映画も5分の映像に少なくとも30分くらいテープを使ったりする。 何か書こうとすると、まずINPUTを欲しがる。 専門書とか、新聞とか、映画とか、小説とか。 しかし、若書きはその逆をいく。 自分で書いたものを自分にフィードバックして、 さらに書いては、積み上げていく。 ひたすら自分の書いた物だけに向き合っていく。 そういうような事を、高橋洋という脚本家が言っていた。 ある種の山ごもりと言うか、修行のような方法だ。 なんでこんな話をするかというと、 なんか、また書きたくなってきた。 書いてみるか。 若書きするか。 先日、試しに書いてみた。 ブログ更新一回分くらいの ショートショートのようなものだったが、 書いては消し、書いては消して、 結局書き上がったものは、まるごと没にした。 すごくこたえる。 すごく消耗する。 がっかりする。 自分にがっかりする。 自分の無能さにがっかりする。 ある程度まではいけるんだ。 誰でもある程度までは上がれるんだ。 しかし、何処かで天井にぶつかる。 この先はないような不安におそわれる。 心も折れてくる。 疲労もたまってくる。 すると、これでいいかって気になってくる。 判断力が緩くなってくる。 そういう緩さによって、 なにかが、 見覚えのある何かが、 書かれたものの行間からにじみだしてくる。 書かれた内容ではなく、 ことばとことばの狭間ににじみだしてくる。 それは、 他でもない、 ちっちゃい自分だ。 ぎゃー! こわー! おぞましー! 小説は全て、ホラー小説である。 2011.05.08 Sunday
ええい、ゆうたれ!
今日は告知です。
告知します。この顔で。 少し前から、ウェブサーバーを借りて、 いろいろいじってたんですが、 とにかく運用してみることにしました。 しました。 よかったら、たまにのぞいてやって下さい。 こいつです。 サイト名はゴゴゴゴです。 深い意味はありません。たぶん。 魚市場で働いてる友達が名付け親です。 このブログもまだまだこのまま続けてまいりますので、 これからも、よろしくお願いします。 よし。 ゆうたった。 ちょっと気が楽になった。 サイト自体は結局、フリーウェアのワードプレスで構築した。 使いながら思った。 もう、あるものは作らない。 どんな小さな機能でも、他にないやつを作ろう。 そして、公開しよう。 公開されないサービスは、映画化されない脚本と同じだ。 2011.05.01 Sunday
トムウェイツ集計してリバー正義は孫じゃあたたたたたたたたたたたー
トムウェイツ、つるべ落としの秋の夕暮れ、か。
孤独の手前でハミングする夜の歌。 ブルーバレンタインと音が似てるだけやったっていうオチはなしよ。 今日はいちにち、新しいサイトの頭脳部分である集計処理を考えていた。 たとえば、集計する対象データが100件あるとして、2つの相関を集計する場合、組み合わせから処理回数は4850回。1000件なら499500回。10000件なら49995000回。 そんな膨大な処理をどうやって分散させるか、あるいはもっと別の集計方法はないか。 そういう話。 結局、ベストな解答は見つからなかった。 本当に進みたい道にだけ、しゃかりきに突き進むべきじゃないのか。 そう考えだすと、違う種類のジレンマにおちいるので、今は走り出した自分をよいしょしていようと考えてる。 ゴールははっきりしてるんだから。 その先がどうあれ、溺れているときは見えている岸辺を目指す。 空よりひろい豊かな ミシシッピリバー それでは、次のニュース。 最近、正義という言葉の評判が悪いというか、むしろ悪しざまに言われているような気がする。 プラトンからつづく哲学の大事なテーマのひとつだと思っているので、ちと悲しい。 まず、名前がよくない。 いや、孫じゃなくて。 正義の本義は「義」のほうにあって、「正」のほうではない。 正の字は、歴史が与えたチャンピオンベルトみたいなものだ。 というのが、俺の考え。 さっき便所で思いついた。 まあ待ちたまえ。 プラトンの国家を読んだ俺が言うのだから。 カンティアナーの俺が言うのだから、思いついた場所なんて関係ねえ。 それでは、義とは何かって話は、まあやめとこう。 ひとつだけ、 俺が言いたいのは、 正義の徳をしんじなければ、 『北斗の拳』は楽しめませんよってこと! 2011.04.30 Saturday
俺の心のブルートレイン
近道を探してたら黄昏がおりてきた 2011.04.29 Friday
だめとともに去りぬ
だめなもんはだめ 自分に言ってやる だめなもんはだめだ だめなもんはだめ これならどうだっつってもやっぱだめ そこでだめ出すか自分 そこでだめ出すのか みなおしたぜ自分みこみあるぜ wow wow! 書いちゃ消し 書いちゃ消し 消した分だけ水の泡でも 消した分だけだめが消えるぜ だめなもんはだめ 自分に言ってやる だめなもんはだめだ だめなもんはだめ やっとこさ前進っつってやっぱだめ そこで全部消すか自分 そこで全部いくのか いちからやり直す見上げた心意気 wow wow! だってだめなものはだめやし 出てきたもんが自分ってことやし だめを消して自分消して 書きつづけるしかないだろうがたわけ! ちょっとよくなった(まだだめ) さっきよりよくなった(まだだめ) そして全部消すか自分 そして全部いくのかあああ! あんた、あとはまかせた 2011.04.26 Tuesday
マザーハッカー!
目標は、おかんでも使えるインタフェース。 2011.04.24 Sunday
おれおれ会議
先月からずっとゴールデンウィークに思いを馳せている。 2011.04.23 Saturday
このまち、いつかきたまち
原発についてなんか書こうと思ったけど、山岸凉子の『パエトーン』読んでやめた。
笑ってやり過ごせない。 ずっと政治に無関心だったツケだな。くそったれ。 それはさておき。 ちょっとした用事で二日ほど熊本にいたんだが、帰りにちょっとだけ尼崎に立ち寄ってみた。 大阪も、尼崎も、微妙に変化しているくらいでなんかほっとした。 新大阪から大阪に入る時にちらっと見える淀川沿いのテーマパークみたいなあのけばいお寺。 ヤンマーのサッカーグランドとか、あま湯とか、エーデルワイスとか、きりん公園とか、日新中学校とかとか。 そして、立花駅。ま、立花については、いつか別の機会に。 そもそも、こっちきて7、8年くらいしか経ってないので、そんなに変わる訳がなかろうと。 それでも、かつて生活していた場所に訪れると、普段は味わえない感覚がある。 浦島太郎的情緒がある。 まわりをさしおいて 急に年を取ったような錯覚 いったい年を取ったのは おれなのか まちなのか きみなのか はたまたあいつか いいえ誰でも ってそういう事じゃなくて。 なんていうかふるさとって、そういう事も含まれているのかもしれない。 確かにいい気分とばかりはいえない。 しかし、決して悪い気分ではなかろう。 ちょっとだけ 悲しいような、楽しいような 手厳しいような、あたたかいような さよならのような、おかえりのような そんな気持ちがしたとです。 そして、新大阪から 東京行きののぞみに乗って2時間半 車窓に品川あたりの街灯りが流れ出すと 現在にしっかりと息づいた言葉で おつかれさん っていわれた気がしたのな。 この街に。 2011.04.21 Thursday
人工意識に関するメモ
人工意識について考えたことのメモ
人間の五感を外界からの刺激の入力装置とみなす考えかたには、限界があると思っている。 どんな限界があるのか考えてみる。 例えば視覚をコンピューターで模倣してみようとするとすぐに困難にぶち当たる。 まずカメラがパソコンに繋がっているとする。 そのカメラからは、レンズに映ったものが縦横千ドットで1ドットあたり千色の色情報を持つデータとして、パソコンに送られてくるとする。 そうした情報からなんらかの形を見いだして意味のあるデータに変換するプログラムは、不可能ではない。例えばテニスボールを認識してラケットを振るとか。 問題は、ある形に与えられる意味はあらかじめプログラミングされたものに限定されてしまうことだ。 この事は上の文章以上の制限を課する。 まず、形と意味の関係が自明の真理として前提されてしまう。 もっと言うとある形の意味として与えられた観念について、文字通り意味を限定させなければならない。 しかし、人間は実際そのように意味がプログラミングされている訳でないのは明らかだ。 カバとかハナミズキとかとても具体的なものの意味さえ、その色や形だけでなく使い方や、ある場合は食べ方に関してまで、意味は常に未完成のものとして開かれてある。 そもそも「意味」という観念すら明確に規定されないまま、いかにも意味のある振る舞いをしているようなのである。 |