この間、ふと思ったことがあった。
欲望は究極まで突き詰めるなら、理想になる。
俺は成功したい。何に成功したいか、何にでも成功したい。夢とか愛とか仕事とか、全部ひっくるめて、幸福の追求ということに成功したい。
たいていの場合、一つの成功を持って、他の成功ももたらされる。そして、そういった全ての成功を持って欲望は終わる。それは楽しくて快適だからだ。
何より、欲望はそこらへんで急速にしぼんでしまうからだ。少なくとも、成功する前よりはずっと。そしてその後の欲望はずっと穏健なものとなる。
しかし、究極につきつめられた欲望は、そういう成功にも満足しない。その先まで欲望するのである。
それは何か。どういった欲望か。俺が思うのは、その成功を誰もが望むものとして成功させたいということである。それは言い換えれば、誰からも妬まれない仕方で成功したいということになるのではないか。
それはある意味究極の成功欲であり、究極の野心である。
たとえば一生遊んで暮らせる金を手に入れる、という成功を望んでいるとする。そこまでの欲望であれば、法を犯してでも手に入れる。騙してでも手に入れる。騙しはしなくても合法的にでも、とにかく稼ぐなりして手に入れる。あるいは、本当に喜ばれるもの、社会の役に立つものを生み出して、その対価を得る。いろんな成功の仕方があるだろう。
しかし、どれだけ慎重にやったって、世界中のどこかには、それを妬ましく思うやつがいるかもしれないし、それを望まないやつがいるかもしれない。俺は知っていると糾弾する声が聞こえてくるかもしれない。
そうして、その先まで欲望を伸ばすことに疲れ果ててしまい、じゅうぶん満足してるし、これ以上はもういいや、となってしまうのが、成功した人の欲望の末路なのではないか。
その先を望むには、それまで以上の知恵と注意力と体力が要求されるのだと思う。
徹底的に隠すということに知恵を絞るかもしれない。全てを蕩尽して身を滅ぼすことに体力を使うかも知れない。全てをどこかに寄付するなりして、最底辺の生活に舞い戻って行く人もいるかもしれない。
どういうやり方にせよ、欲望をそこまでとことん突き詰めるなら、「世界ぜんたいが幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」と言った宮澤賢治の理想とそれほど遠くないところに行きつくような気がしたのだった。
それは金とか権力とかそういう大きなものじゃなくてもさ、小さな幸福にだって言えると思うのな。
あれだけ立派な倫理というか自己正当化を振りかざしてさ、聖人ぶった教えを垂れておきながら、元教え子と結婚するようなあいつに問うてみたいよ、俺は。
何度再婚しようが、破天荒な生きざまが危なっかしくて、めちゃくちゃ尊敬してんのに、やっぱりふた回りも下の女と結婚して、耳に心地よいコラムなんか書き散らしちゃってるあの人に問いたいよ、俺は。今も好きだけど。
だけどね、そう思いながら、じゃあ自分はどうなんだって思うのな。
そこまで欲望できるか。満足と安逸に永久に別れを告げてでも成功を追求し続けられるか。
そう自問するとね、ああ、あの人たちもその程度の欲望だったんだと、俺もきっとその程度の欲望なんだろうなと妙に納得したりするとです。