2011.05.17 Tuesday
スポンサーサイト
一定期間更新がないため広告を表示しています
| - | | - | - | pookmark |
CALENDAR
SPONSORED LINKS
SELECTED ENTRIES
RECENT COMMENTS
RECENT TRACKBACK
CATEGORIES
ARCHIVES
ついった
MOBILE
LINKS
PROFILE
OTHERS
|
最近の昨日今日のことは明日書くとして
2008.05.30 Friday
ムーシケー
8時半起床
10時始業 19時終業 いろいろあって 22時帰宅、夕飯 キンレイの鍋焼きうどん(399円) 26時就寝 ピュタゴラス ミレトスから海を越えて少し南西に目を移すと、サモスという小さな島がある。 ミレトス学派は、万物のアルケーを探求することにより、思索の方法を対象の観察からロゴスによる認識へと旋回していった。 しかし、それとは別の方角からロゴスへと旋回した一人の思索家がいた。 サモスのピュタゴラスである。 アナクシマンドロスの弟子でもあったという彼は、しかしアナクシメネスのようにはミレトス学派を正統的に継承することはなかった。 ひょっとしたら自身の宗教観の基礎付けくらいにはしたかもしれない。 浄化による輪廻転生からの解脱を説く宗教家でもあったからだ。 ピュタゴラスにとって浄化には2つの方法がある。 医術による肉体の浄化と、音楽による魂の浄化である。 数的比例関係によって作られた音の美の感得は、森羅万象の背後に秘められた数という抽象的な存在者の確信を強めさせたのかもしれない。 こうして現象から遊離した抽象的な対象の思索、すなわちロゴスへの旋回が始まるのである。 2008.05.29 Thursday
賢者を知るは賢者なり
9時起床
10時半始業(遅刻) 19時半終業 いろいろあって 11時帰宅、夕飯 とんかつ弁当(500円)、コンビニのサラダ(260円) 25時頃就寝(いつの間にか寝てた) 哲学の歴史1巻 ミレトス学派からエレア派へ クセノパネス ホメロスが描いたギリシャ神話にクセノパネスがケチをつけたのは、信仰の問題ではなく、ロゴスの問題であったのだと思う。ミレトス学派の万物の始原を問うという、哲学の芽生えによって、蒙が啓かれたのだ。人間界のドラマは、もはや万物のアルケーにまで高められた神の概念には適用できない。 クセノパネスの生まれはミレトスの近く、コロポンだ。しかし、盛年に達する前にペルシャがミレトスを占領し、それを嫌ったクセノパネスは南イタリアへと故郷を後にする。 ミレトス学派の思考の成果を携えていった。しかし、その重点は物理学的な自然観にはなく、抽象的な論理の発動にあったのに違いない。 アルケーはもはや目で見られる、手で触れられる対象ではなくなった。 思考が知覚の対象から離れることで、達することのできる領域が拓かれつつあったのだ。 ミレトス学派からエレア派のこの劇的な志向の旋回は、ここに始まりを告げたのだと思う。 2008.05.28 Wednesday
プネウマ
8時半起床
10時始業 19時終業 いろいろあって 24時帰宅、夕飯、風呂 キンレイの鍋焼きうどん(399円) 26時就寝 哲学の歴史1巻 ミレトス学派 アナクシメネス 地球は広大な宇宙に浮かんでいる小さな丸い惑星である。 こんな常識が存在しない時代であっても、地上には果てがあって、その先には広大な空間が広がっているということくらいは考えたかもしれない。 太陽や月はどこから昇って、どこへ沈むのか。 無限に広がる大地のどこかにそれらが出入りする大きな穴が開いているとは、よもや考えまい。 万物のアルケーは空気(プネウマ)である。 水に生命力の原因を見出したタレスを祖とした。 その無限の起源を想定した師の成果を受けた。 そして空気こそ万物の生成と消滅を支えるアルケーだと、ミレトス学派にひとつの結論を打ち出した。 それがアナクシマンドロスの弟子、アナクシメネスなのだ。 私はミレトス学派をそういう風に総括してみる。 結局、ミレトス学派が探求したものは世界の変化の動因である。 意識に上った時にはすでに、世界は生成と消滅を目指して動くのを片時もやめないのである。 その万物の動因を生命力に見立てたのがミレトス学派なのだ。 そして、ミレトス学派にとって生命は永遠にわたって引継がれ世界を動かす。 その動因を担う媒体が水であり、その偏在した姿である空気なのである。 動因の始原からその質料の始原へとパラダイムが大きく旋回するのは、この後の話だ。 ところで原子、量子、クオークといったところで、その質料の始原については、古代のギリシャ人同様、何も解っていないのが現状ではないか。 2008.05.27 Tuesday
ト・アペイロン
8時半起床
10時始業 19時終業 いろいろあって 24時帰宅、夕飯 すき焼き(290円)、ツナコーンサラダ(200円)、味噌汁 25時就寝 哲学の歴史1巻 ミレトス学派 アナクシマンドロス 万物のアルケーを「ト・アペイロン(無限なもの)」としたという。 熱と冷、昼と夜、光と闇。世界は相反するもので成り立っており、それゆえそれらの始原のものは、どちらかの極に収まりきらない無際限なものであらねばならないという。 しかし、このようなカタログ的な説明では、アナクシマンドロスの思索について具体的な思考のプロセスが見えてこない。 彼が師のタレスの考えを受けて、万物のアルケーをどう考え、師の「万物のアルケーは水である」という考えをどう発展させているのか、まったく持って見当がつかない。 有限のものから無限のものへの飛躍はこんな風にはなしえないはずだ。これではまるで思考停止ではないかとすら思える。 たとえばアナクシマンドロスにはこんな断片がある。 …それらの諸事物は互いに時の定めに従って、不正に対する罰を受け償いをすることになるからである。 タレスが水を万物のアルケーとして、世界の背後にある超越的な働きを思考の対象としたのであれば、アナクシマンドロスは師の思索を受け継ぎながら、新たな問題圏であるアルケーの系譜、その歴史性を思考の対象にしたと考えてみることはできないか。 タレスはアルケーの場所を問題にし、それを水に見出した。 アナクシマンドロスはアルケーの起源を問うて、無限なものを想像した。 生命力が物質を動かし、生成と消滅の原因をなすのであれば、それらがよって来たる処は過去、すなわち無限なる時間である。 二つの思考が補い合って万物のアルケーを問う問いをさらに深くまで掘り下げたということにはならないだろうか。 2008.05.25 Sunday
アルケー
哲学の歴史1巻
ミレトス学派 哲学の祖といわれるタレスは哲学というより、日蝕を予言した人として記憶していた。 万物のアルケー(始原)は水であるという断片はタレスのものである。 これまで古代哲学についての解説は面白く感じにくかった。 過ぎ去った未発達の思考として片づけてしまいがちだからだ。 インターネットや印刷された書物はもちろんだが、物理学も化学も純粋理性批判もまだ存在しなかった時代に、世界がどういうふうに生じて、どうあるかと問うということは、考えてみると途方もないことに思える。 生まれて初めてビデオの予約録画をする時のような途方もなさとは比べ物にならないほど、とっかかりのないまったくもって途方もない試みだったのではないか。 しかし、それでもタレスは考えたのだ。 知的好奇心に駆られて考えたのだと思う。 そのタレスを駆り立てた原初の知的驚きというものが何だったのかはわからないけど、とにかく万物のすなわち森羅万象の始原が水だという結論にたどりついた。 大事なのはこの過程だと思う。 現代の常識としてもっている知識をいったんリセットして、タレスの時代の人々に近い前提条件のもとで考える。それはあくまで想像上のものにすぎないかもしれないけど、現在もっている知識が現代という時代の規定を受けていることはわかりきったことなのだから、それを批判的に棚上げしていくことによって、古代哲学への関心を形成することができるのだと思う。 たとえば、物質の運動を考えてみる。万有引力や慣性の法則などを、近代によって規定された知識としていったんなかったことにして考える。 すると、なぜ物体が動くのか、考えてみればそれだけでも十分驚ける事柄ではないか。 机の上に置いてあるコップがひとりでに机から転がり落ちたりしたら、びっくりして机をひっくり返して原因を調べるようなものだ。 物体がある位置から別の位置へ動くのはなぜだろう。ある物体に別の物体がぶつかるから動かす力が伝播するのだと言ってみても、そもそもそのぶつかった物体を動かす力は何なのか。 ここに一つの仮説が生まれる。どうも固いものは動かないようだ。やわらかくなればやわらかくなるほど運動する性質を顕著に現している。 そして、その動かす力が伝播して固いものを動かすことがあるとしても、やっぱり力の源はどうも柔らかいもの、しなやかなものにありそうだ。 川を眺めても硬い大岩はじっと動かないが、その奔流はいろんなものを流し去っていく。やわらかいものを柔らかくしている何物かに、何らかの力の源が宿っていて、それこそが生命力なのではないか。 そして、柔らかいものを柔らかくしているもの、それがすなわち水なのだ。 あらゆるものが運動によって生成消滅しているのだとすれば、運動を可能にする生命力が水なのだ。万物の始原は水なのだ。 タレスがこんなふうに考えたのかはわからない。 しかし、何かを知っている気になっているうちは、哲学というものに関心が向かいにくいのは確かなようだ。 2008.05.23 Friday
公共性の構造転換
9時起床!
11時始業(遅刻) 19時終業 21時帰宅、夕飯 豚の生姜焼き弁当500円、わかめサラダ200円、あさげ30円くらい 22時 風呂、洗濯、適当に本を読む 26時就寝 哲学の歴史10巻 フランクフルト学派の雄 ハーバーマス 解説は三島憲一 難しいので適当に思ったことをメモしておく。 私が学生の頃、阪大の教授で客員として講義に来ていた中岡成文が、当時刊行が始まったばかりの講談社『現代思想の冒険者たち』シリーズでハーバーマスを書いていた。 中岡成文の講義はヘーゲル哲学についての概説であったが、非常にわかりやすく、私はその講義を毎週楽しみにしていた。ちなみに中岡教授はヘーゲルの研究書として、アレクサンドル・コジェーブの著作を推薦してくれた。しかし、結局は読まなかった。 そういうこともあってか、ハーバーマスにたいしては学生時代から好意的な先入見があった。 鋭い批判精神の持ち主で、権威に対しては好戦的な人。 それでいて、弱者に対しては同情的でもある。 コミュニケーションによる意思伝達には楽観的な展望を持っていて、断絶による暴力の介入にたいして果敢に立ち向かう闘志である。 三島憲一の概説を読んで、まあ当たらずも遠からずといった印象だった。 とくに、第二次世界大戦直後、誰も口にできなかったハイデガー批判の先陣を切ったくだりなどは面白い。 彼の批判精神は透徹している。そう感じた。 だがいかんせん、肝心の「で、あなたはどう考えるの?」という段になってくると断然つまらなくなってくる。 それは、ひとえに社会科学や言語哲学などの成果を盛り込んだコミュニケーション論の展開が、私にとって難解で厄介な代物に思えて仕方がなかったからだ。読んでいても興味がわかないし、集中できなかった。 このあと、いったん古代哲学からやり直して、社会科学系、言語哲学系も一通り通ってみる予定である。そのあとで、改めてハーバーマスのコミュニケーション論に取り組んでみたいと思う。とにかく、無視はできないようなそういう偏見なのである。 哲学の歴史10巻はこれにて読了。 2008.05.22 Thursday
否定弁証法
8時半起床
10時始業 19時半就業 21時帰宅、夕飯 のり弁当、塩ラーメン、わかめサラダ 23時風呂、読書 26時就寝 フランクフルト学派 アドルノ ホルクハイマーとともに『啓蒙の弁証法』を著したのはすでに書いた。 思想的なソリューションとしては『否定弁証法』があげられる。 抽象的な議論のうちに理解があいまいにされた問題をあげてみる。 1.自己保存の欲求から始まった自然の支配は、やがて自己目的化して支配のための支配になるというが、自然支配を自己目的化に駆り立てるものはなんだろうか。 2.人間は文明を発展させることで自己保存の方法を洗練させてきたが、そのことで内的自然をかえって抑圧する結果になり、野蛮状態へと帰っていく。しかしその考えには文明化と内的自然の二律背反という不当な前提がないか。 3.同一化は同一でない部分を切り捨てる暴力的な同一化でしかありえない。同一化を拒む諸矛盾こそ語ろうと努力すべきであり、そこにのみ啓蒙は活路を見いだせる。どういう問題意識の経緯でこういう解法にたどりついたのか、いま一つ理解できていない。 手ごわいな、現代思想。むう… 2008.05.21 Wednesday
批判理論
8時半起床
10時始業 19時半就業 21時帰宅、夕飯 きつねうどん、黒豆納豆、ツナコーンサラダ 22時風呂 『生き血を吸う女』を少しだけ観たが、面白過ぎそうなので、週末の楽しみに取っておく。 ドリトル先生の航海記や哲学の歴史を読む。 26時就寝 哲学の歴史10巻 フランクフルト学派 マックス・ホルクハイマー アドルノとともに『啓蒙の弁証法』を著すといえば、ああそうかとうなずけた。 しかし、著書は一切未読。 マルクス主義を社会科学的な方法で批判的に乗り越えようとする。 社会科学的な方法というのは、統計やアンケート調査などのフィールドワークのことであり、フロイトの精神分析の成果を取り入れている。 現状において、プロレタリアートの階級意識(あるいは無意識)にどれほどの起爆力があるのかと問うていく。 史的唯物論、いよいよ登らなければならない山に思えてくる。 2008.05.20 Tuesday
アジール
8時半起床
10時始業 19時終業 新宿の紀伊国屋書店による。 『映画はおそろしい』DVDボックスセットを買う。約1万4千円也 『ドリトル先生航海記』ヒューロフティング著、井伏鱒二訳 『歴史をよみなおす(全)』網野善彦著 22時帰宅 形而上学入門読了 26時就寝 中沢新一『僕の叔父さん網野善彦』 面白かった。伝記のような半自伝のような読みやすい体裁だが、しっかりと網野史学の入門になっているのではないかと思う。 昨日買った『歴史をよみなおす(全)』はもちろんその影響だ。 中沢新一自身の思想もちらほら垣間見える。 以下、中沢新一を読み解くための指標をあげておく。 道のりは長そうだ。 レヴィストロース『神話論理』『野生の思考』 フレイザー『金枝篇』 エリアーデの主要著作 網野善彦の主要著作 バタイユ ジルドゥルーズ 構造主義 史的唯物論 マルチチュード そしてアジール 2008.05.19 Monday
<無>歴史主義
11時起床
だらだら 12時〜 風呂、だらだら、洗濯、だらだら、布団干し、だらだら 14時〜 買い物、昼飯、だらだら 焼うどん 15時〜 ごろごろ 21時夕食 パスタ(ジェノバ風?)、ほうれん草とキノコのサラダ。 23時半 キャメロンクロウの『セイエニシング』鑑賞 27時就寝 哲学の歴史10巻 西欧マルクス主義 ルカーチ、グラムシ、アルチュセール、ルフォール ルカーチは『歴史と階級意識』が名前だけ知ってた。 グラムシは知らないし、解説も全くわからなかった。 アルチュセールは、躁鬱病の天才で自分の妻を絞殺するといったことだけが印象に残ってる。 どうも難解な上に無味乾燥な気がして興味が持てなかったマルキスト達のなかにあって解説書を読み著作を買った数少ないマルクス主義哲学者の一人である。ちなみに他には廣松渉がいる。学生時代に『マルクスのために』だか『資本論を読む』だかを買った記憶はあるが、結局読まずに引越しの時に捨てた。 タイトルはアルチュセールの用いた概念。 ヒューマニズムを脱することによってはじめてマルクスは独自の歴史・政治理論を作り上げることができたのだという、マルクス読みの新機軸。 そこにはヘーゲル的な、目的論的な歴史という考えはない。そういう意味で<無>歴史主義の「歴史の科学」というのが、アルチュセールが読んだマルクスなのである。 |