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最近の昨日今日のことは明日書くとして
2008.06.20 Friday
古代ギリシャのエスプリ
8時半起床
10時始業 20時終業 いろいろあって 23時半頃帰宅 疲れて横になるが、蒸し暑くてなかなか寝付けなかった。 結局、26時就寝 ディオゲネス・ラエルティオスのいわゆる『列伝』を読んでいる。 これがめっぽう面白い。 抑制のきいたというか、淡々とした調子で語られる古代ギリシャの哲人たちの評伝。 時におかしかったり、機知にとんだ言葉の応酬に感心したり、 愚かしくもあったり、慈愛に満ちていたり、はかなく悲しげだったりする。 それに比べると、時折はさまれる著者ディオゲネス自身の詩やエピグラフはやや凡庸なきらいがあるのだけど、それがかえって狙っているふうでもあり、一歩退いた冷静なおかしみが感じられもする。ここはひとつ挿話を引用するよりほかに良い紹介の仕方を知らない。 七賢人のひとりビアスの評伝 彼はある時神々を信じない人たちと一緒に航海をしていたが、船が嵐にあったとき、その人たちもまた神々に助けを求めたので、彼はこういった。 「静かにしなさい。君たちが船に乗っていることを神々に気付かれるといけないから」 かような評伝の尽きることがないのだ。 2008.06.18 Wednesday
高貴な精神
ソクラテスの弁明
彼は自尊心という点で、大衆に譲歩しなかった。 つまり、裁判に際して、涙を流して嘆願することはもちろんのこと、兄弟や家族を同伴させることさえ、あえてしなかった。 ソクラテスは見抜いていたのだ。 世間からある程度の栄誉や名声を与えられたものが、裁判によって己の命が俎上に挙げられた途端、その名誉や尊敬に値しないような振る舞いをする。 高貴なものの失墜をこそ、衆愚は欲していたということを。 ところが、その名声は大衆が進んで与えたものなのである。 ニーチェならそれをルサンチマンと名づけたであろう。 大衆の無意識の欲望によって、善良な精神が葬られる宿命をソクラテスは悟ったのだと思う。 しかし、彼はそれをニーチェのように糾弾することはしなかった。 彼の精神が屈しなかったのはただ、善く生きるためには魂の気高さが不可欠であり、茶番を演じて生きながらえることは、普遍的な人間である魂のイデアの居場所を狭くすることに他ならないと知っていたからではなかったか。 死刑判決を受けてもなお、永遠の相の下に彼が微笑んで見せたのは、実存という精神の可能性を私達に保証するためであったのだ。 2008.06.11 Wednesday
オシツオサレツ
8時半起床
10時始業 19時終業 会社で中締め懇親会を行う。 意外な人が意外な芸を披露。 会社のイベントで珍しく楽しめた。 22時帰宅、風呂、読書 26時半就寝 ドリトル先生アフリカゆき読了。岩波少年文庫、全部で12巻ある。 大抵の小学生は一つ読み出したら止められず、全巻むさぼるように読むそうだ。 これでもかというくらいのご都合主義な展開だけど許せてしまう。 タイトルは、本編に出てくるキャラクターの名前(!)だ。 巻末に各巻のあらすじが載せられてるんだけど、ネタばれしてるんじゃないか。 次はドリトル先生航海日記。 2008.06.10 Tuesday
湖の夢
8時半起床
10時始業 19時終業 20時帰宅、夕飯 シューマイ、粗挽きウインナー、豆腐、エノキを鍋に放り込んで煮る。 ポン酢で食べる。 風呂、洗濯のあと、本読んで寝る。 26時就寝 心にもがもがと雨雲が渦巻いたとき、彼女はボートの舳先からぽちょんと湖に飛び込んだ。 私はあわててオールをつかみ、ぷくぷく泡立つ水面へ差し出した。 でもその時にはもう向こう岸の苔の生えた岩の上で、彼女はうずくまりながらじりじり空を見つめていた。 なんだか無性に悲しくて、ぴちぴち瞼を閉じたとき、目からこぼれ落ちた雫が、彼女を流し去ってしまった。 昼間にそんな夢を見た。いったい何が起こったのかさっぱりわけがわからない。 言葉が像を結ぶ先行性の不器用な記録があるだけだ。 2008.06.09 Monday
スペルマタ
休日
夕方まで本などを読みつつ、19時には新宿の居酒屋天狗で知人の誕生日を祝う。3000円 アナクサゴラス イオニアのクラゾメナイ出身。 イオニアといえば、思想潮流はミレトス流の自然哲学のはずだ。 アナクサゴラスの思想がエレア派に属しながら、ミレトス派のそれと親和性があるのも肯ける。 しかし、彼の万物のアルケーに対する結論は、かなり異質である。 スペルマタ(種)と呼ばれるそれは、きわめてロゴス的な方法で、ミレトス派の物象化という問題を回避している。 スペルマタとは森羅万象の種を種たらしめている表徴である。 しかし、驚くべきはここからで、スペルマタにはあらゆる種の表徴が混入しているという。 しかも個別な表徴の結合体ではなく、各々固有の比率による融合体なのである。 末はモナドかスピノザかというほどの抽象的思考の真骨頂である。 こうしてイオニアの自然哲学とエレア派のロゴス的思考は接近を見せた。 しかしそれをアルケーからストイケイオンへの橋渡しとしてしまったエンペドクレスの四根はやや失速気味の感があるか。 2008.06.08 Sunday
ストイケイオン
休日
東神奈川から八王子方面の十日市場に行く。 新宿によって帰宅したのが22時。 モーリスルブランの『813』読了。 エンペドクレス シケリア地方のアクラガスの人。 貴族の出身ながら、権力とは無縁で民衆のことを気遣う人であったそうだ。簡素な生活を好んだようである。 すぐれた弁論家であり、弁論術教程(テクネー)という技術書を書いた。 千人会議を解散させるなど政治にも関与している。 また、医者でもあって、どの医者にも見放された女性を看取ってこれを蘇生させたり、疫病に苦しむ町に対しては私財を投じて、河川の浄化を行ったりした。 こうしたことはエンペドクレスの神格化に寄与したのだろう。 火山の火口に身を投げ、青銅製の履物を片方のこして天空に昇ったという伝説が残されることになった。 パルメニデスの弟子ということになっているが、その思想はミレトス派の自然哲学に近い様に思う。 彼においては、万物のアルケーではなく、その構成要素(ストイケイオン)が問題とされた。それは「火」「水」「空気」「土」の四根である。 それらが互いを引き寄せる引力を「愛」と名付けて、斥力を「争い」と名付けた。 これまでのエレア派の流れからすれば、根拠の問えない前提の導入であり、物象化への逆戻りであるように見なされたかもしれないが、ここにはアルケーからストイケイオンへのささやかながら重要な展開がみられる。 エピソードを一つ。ピュタゴラス派の講義は誰でも師の講義に参加する事が可能であった。しかし、エンペドクレスが講義内容を詩にして公にしたため、それ以降、ピュタゴラス派の講義には詩人は参加できないという規則が定められたという。 2008.06.06 Friday
友達と会う
8時半起床
10時始業 19時終業 学生時代の友人と会う。 神田グリルでハンバーグとカニコロッケ。 サラダとスープのセット。計2000円位。 23時半には帰宅。洗濯、風呂など。 結局26時ごろ就寝 カイエソバージュ4巻。神の発明を読み始める。 今日から読書記録でも取ろうかと思う。 2008.06.05 Thursday
読書記録
8時半起床
10時始業 19時終業 いろいろあって 24時帰宅、夕飯 シューマイ、もやし野菜いため用、豚肉スライス、絹ごし豆腐でシューマイ鍋。 400円くらいで満腹。しかも低炭水化物。 哲学の歴史と並行して、中沢新一のカイエソバージュのシリーズを読んでいる。 あと、ディオゲネスラエルティオスのギリシャ哲学者列伝(岩波文庫)。 ヒューロフティングのドリトル先生アフリカゆき(岩波少年文庫 井伏鱒二訳)。 そして、今日モーリス・ルブランの813(新潮文庫 堀口大学訳)を読み始めた。 2008.06.04 Wednesday
物質の外と論理の外
8時半起床
10時始業 19時半終業 いろいろとあって 24時帰宅、夕飯 わかめサラダに豚しゃぶを乗せて、青じそドレッシングとマヨネーズでいただく。 26時就寝 エレア学派 メリッソス メリッソスはエレアからずっと離れたミレトスの近く、サモスの人。 ただし、ミレトス派の自然哲学を厳しく批判した。 ひょっとしたら、エレア派のロゴスによる思考訓練を経た者にとって、ミレトス派の物象化された対象を論じるやり方は所詮は仮象の哲学にすぎなかったのかもしれない。 ゼノンがパルメニデスの思考方法を定式化したとすれば、メリッソスは師の「あるもの」を定式化した。とエレア派自体を定式化しておいて記憶の助けとする。 それにしても、運動とは何だろうか。ミレトス派、エレア派と古代の哲学史をざっと俯瞰してみて、次第に分からないことがわかってきたような気がする。 単純に物象化を受け入れて、つまりどこまで分割できるにせよ、対象は何らかの物質の組成をもつとして物体の運動を考えるなら、エレア派の提示するパラドクスをきちんと克服できるのだろうか。 物質が移動しうるためには、移動する方向にその物質を受け入れる空虚がなければならない。しかし、そのためには空虚とは何かが言えなければならない。空虚とは何か。何もない空間を思い浮かべるしかないのだけれど、それは本当に空虚ということなのだろうか。何か本当はそこにきちんと考えないといけない問題があって、ただそれに気が付いてないだけのような、思い出せない忘れ物みたいなこの腑に落ちなさは何だろう。 とりあえず、ものの侵入を許す場が空虚だと考えて、空虚が物質の侵入を許すとき、物質の背後には別の空虚が生じている。やはりどうしても何もない空間を無機質なボールがスーッと移動する視覚イメージでしか運動を捉える事が出来ていない。 それでいいといえばそれでいいのかもしれないが、やはりそこには何らかの無数の前提が存在することは間違いないのだ。それは論理の外側から与えられる前提だ。物質の外側を埋めるために論理の外側を断念せねばならない。 ミレトス派とエレア派は、つまるところどちらの外側を許容するかという立場の表明であったのかもしれない。 2008.06.03 Tuesday
ディコトミー
8時半起床
10時始業 19時終業 20時半帰宅、夕飯 きつねうどん、弁当の残り物のおかず 26時就寝 エレア派 ゼノン 彼はパルメニデスの正統な後継者である。 二分割(ディコトミー)はアリストテレスが定式化したパラドクス。アキレウスと亀や矢のパラドクスは有名なので省略する。 はたしてゼノンは、これら運動のパラドクスによって、何を否定したのだろうか。 ここにはロゴス的思考の計り知れないポテンシャルが開示されているように思える。 そこには科学的で実証的な思考をことごとく覆す程の知の鉱脈が、地中深くに横たわっている様な、そんな予感がある。 われわれは運動と言っていったい何を理解しているというのか。 ひょっとしたら、物象化という知性による加工を抜きにして、われわれは対象について何かを具体的に知ることはできないのではないか。 あるものの運動を考えるとき、すでに対象をひと固まりのものとして、無批判に前提してしまっているのではないか。 ひょっとしたら物象化という加工を通して、すでに対象を歪めてしまっているかもしれないのだ。そこに生じるひずみをエレア学派は論難しているのではないか。 物象を思考するのではない。対象を物象化して観念の俎上に載せた上で思考をするのである。はたしていかなる思考であれば、エレア派の議論を詭弁だと退け得るのだろうか。 |