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日本の水道水
結局買ってしまった、エアポンプと投げ入れ式のろ過装置。金魚鉢がせまいので、最小で最少電力のものを探した。チューブと合わせて1410円。一か月連続使用で30円とコストも案外安い。最初から買っておけばよかった。これで随分気楽になった。これで死んだらさだめというやつである。金魚は水面で口をパクパクさせることもなくなったし、餌の食い付きもよくなった。二三日で水が黄色く濁るなんてこともないだろう。人間の文明にかかれば、金魚一匹生かしておくことなどぞうさもないことだぜ。日本の水道水は軟水に近いらしく日本は金魚にも住みやすい国なんだな。
| 昨日の日記 | 23:18 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
水草のない水槽

 松屋の豚丼、豚汁。540円。

 今日は編集論の授業があったので、京橋によって帰宅。すると午前零時を回っている。ということは、朝九時から午前零時まで十五時間近く、金魚をほっておくことになる。餌も朝与えたっきりだ。

 金魚鉢の置いてある部屋に入るのはいつも後ろめたいような気持になる。案の定達磨は金魚鉢の底で口だけを動かしてヒレも動かさずに沈んでいる。こころなしか目玉の周りが白く曇ってるような気がして、気が滅入る。

 金魚も眠ったりするのではと淡い期待を抱きつつ、もう、無理かも知れないと思いながら水槽の水を少し変えてやり、しばらくおいてから餌を与える。そして七個目のエアーストーンを入れた。

 それにしても水槽の汚れ方が尋常じゃない。たしか三日前には水槽を掃除してやったのに、もうガラス壁に苔のようなものがついている。白いエアーストーンにも付着して緑色になっている。ひょっとしたら、水草が原因じゃないかと思い水槽からだしてみると、生ごみの野菜みたいな匂いがしている。

 腐ってるのか?水草が?光合成はしてないのか?こいつが水槽の酸素を奪ってるのか?いろんな疑惑が湧いてきて、この際捨てることにした。ちゃんと光合成してるように思えないし、臭いし、他に打つ手も思いつかないので、とりあえず捨てた。水槽は今や金魚と砂利とエアーストーンだけのさびしいものになった。

 急に何にもなくなると金魚が緊張するかもしれないので、造花のヒマワリがさしてある花瓶を隣に申し訳程度においてやる。

 それからだ。俺が飯を食ったのは!(怒)

| 昨日の日記 | 00:52 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
映画のエイドス

 冷凍ラーメン、300円。

 映画とは何か。

 映画批評を生業にしている人たちは、もはや映画とは何かが言えなくなってきているんじゃないかと思う。あるいはそんなことにいつまでもこだわっていたら、自分たちの商売が立ち行かないという現実によって、変化を受け入れるという踏み絵を突き付けられているのではないか。

 HDVや安価な編集機材が普及する前には、フィルムで撮られたか否かということで、かろうじて映画とは何かが言えた。しかし、今やフィルムでなくたって立派な映画が撮れる時代になってしまった。フィルムであるか24コマであるか劇場であるか云々は、映画のなんたるかを示す切り札ではなくなってしまったんだと思う。

 映画とは何か。

 俺はどう考えるかというと、映画が何かということを知る上で、吉本隆明の芸術言語論が大変有効な説明方式になるんじゃないかと思っている。つまり文学における自己表出の理論が、映画においても通用すると思っている。

 アンゲロプロスも黒沢清も映画には撮った人間が出てしまうと言っている。撮られた映像作品に自己表出として不可避的にあらわれている人間、その人間が映画に対して持っている思想の深みが、それだけその映画の映画らしさを支えているんだと思う。

 もっとありていに、というか身も蓋もないことを言ってしまうと、映画とは撮る人の生きざまであって、それはその人が映画のような人生を生きたかということとは全く関係がなくて、どれだけ映画について想い、考え、愛してきたかということであって、映画としての映画は、あるいはどのような芸術もそれからは逃れられない。

 そして、そうやって自己表出としての映画のルーツをたどっていくと、現代のところ、それはフィルムの時代の映画に行き着くのだと思う。

 50年後、100年後のことは分からない。しかし、一旦フィルムとして映画がこの世に誕生し、それが時代とともに変化しながらでも生き残り続ける限り、映画の本質、映画とは何かということは消え去ることはないように思う。

| 昨日の日記 | 23:42 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
Me & Her

 キンレイのカレーうどん。400円位。

 金魚を飼いだして気づいたのは、よくよく見ると金魚もいろんな動きをするということ。当たり前のことかもしれないけど、実際飼ってみると、この動きにほとほと当惑させられてしまう。とくに水替えのときなどは金魚に強いストレスがかかるらしくしばらく眼が離せなかったりする。

 目をむくしぐさは以前にも書いたが、背びれが連動しているようで、その時には背びれをぴんと伸ばす。しかし、今日の水替え直後には、底でじっとしながら背びれだけをぴんと立てることもあった。ちょうど猫が毛を逆立てるようにといえばよいだろうか。

 痙攣のように身震いすることもあれば、つきものにかかったように急激なターンを繰り返して暴れることもある。これら一つ一つが、こいつらの数少ない言語だとすれば、ドリトル先生のように、金魚の言葉を理解する方法も、あながちなくはないのかもしれない。そいつが理解できれば、金魚の世話もずいぶん楽になるかもしれない。

 あくまで楽に世話することが重要なわけで、これも一つの愛情と開き直る前に、もう少し距離を置いて考えるようにしている。

 たとえば崔洋一の『血と骨』では、北野武扮する主人公が妾を二階に住まわせて、日々愛欲にふけって本妻を苛立たせるわけだが、ある日突然この女が脳卒中かなんかで半身不随になってしまう。それまで非道を絵にかいたようなエゴイストである主人公が、なぜか唯一この妾を介護するようになる。ただ淡々と。

 もちろん、これと同じというわけではない。ただ、何に例えるかと考えたときに、思い浮かぶのがこれくらいのもんである。そのくらい、何かを世話するということをしたことがないといえばそうなのかもしれない。

 まあ、しかし、たかが金魚である。金魚を世話しながら、お昼におかかおにぎり食ってる程度の気楽な責任感である。さすがにシーチキンはまだ食えそうにないが。

 ところで、村上春樹の新刊『1Q84』が先日書店に平積みされたと思ったら、翌日には上巻完売していた。ノルウェイ以前のものを高く評価している俺は、正直ひいた。売れすぎだろと。文庫化したら読んでやるかと。

 今日、会社帰りに有楽町にある三省堂に立ち寄ってみると再び増刷されていた。誰に対してかわからないが、顔を赤くしてレジに並んでしまった。さすがに下巻合わせては買えなかった。あほである。あほ過ぎて自分でネタにしたわ。わはは。

| 昨日の日記 | 00:20 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |